目次
古隆中とは
襄陽市から約13Km離れた小さな村に古隆中はあります。
古隆中とは、蜀の軍師諸葛亮孔明が弟の諸葛均と共に暮らしていたとされる場所です。
諸葛亮孔明はもともと徐州に暮らしていましたが、幼いころに荊州に移りました。
孔明は隆中で晴耕雨読(晴れの日は畑を耕し、前の日は勉学に励む)の生活をしていました。
劉備は諸葛亮孔明に会うため、そして軍師として陣営へ迎えるため、隆中へ3回足を運びました。
これが有名な三顧の礼です。古隆中は三顧の礼が実際に行われた場所です。
諸葛亮孔明は、劉備の陣営に入るまで、隆中で暮らしていました。
1996年に全国重点文物保護単位に指定され、2001年にAAAA級景観区となりました。
古隆中へ入場
古隆中の入場口は基本的には1か所のようです。
僕は、入り口から少し離れたこちらの施設からカートに乗り、入り口へ向かいました。
敷地内は広く、メインのめぐり方以外にも、いろいろなめぐり方があるみたいですね。
10分ほど乗り、入り口へ到着。
隆中は山の上にあるんですね。
階段を上りいざ、三顧堂へ。
武候祠
武候祠とは、諸葛亮孔明を祀ったものです。
しかし、武候祠は中国にはたくさんあるので、そこまで珍しいものではありません。
しかし、古隆中の武候祠はたくさんある中でも有名な武候祠の1つです。
有名な武候祠は、成都、南陽の武候祠です。(成都、南陽両武候祠は、諸葛亮孔明のみを祀っているわけではなく、劉備やその他家臣も祀っています)
古隆中の武候祠は、東晋時代に建てれ、清代(1699年)にこちらへ移し替えられました。
武候祠内の諸葛亮孔明の像。
その他蜀の武官、文官たち
武候祠には、諸葛亮孔明の他、蜀の将たちが並んでいます。
その一部を紹介します。
上から馬良、蒋琬、費禕、龐統
他にも馬謖、諸葛均、廖化等の人形もあります。
草蘆亭
草蘆亭は諸葛亮孔明が、この地で17歳から27歳までの10年間暮らしていたことを記念して、
清代1720年に建てられました。実際に住んでいた家のレプリカではないのですが、
10年間もの間、隆中で勉学に励んでいた証拠です。
六角井
こちらの井戸は、諸葛亮孔明が実際に使っていたとされる生活用の井戸です。
記録が残っているみたいです。
三顧堂
古隆中のメインである三顧堂。
三顧堂は、劉備が三顧の礼をし、諸葛亮孔明が劉備に対し、
天下三分の計(隆中対策)を説いた舞台です。
三顧堂は、1719年に建てられたものです。
三顧堂の前には、3本の古柏が立っています。
これは、劉備が諸葛亮孔明を訪れた時、馬を繋いでいた木であるとされています。
三顧の礼の時の1コマです。劉備との陸中対策の様子を表しています。
劉備は3度目の訪問でやっと諸葛亮孔明に会うことができました。
諸葛亮孔明の家を再現
諸葛亮孔明の私生活をのぞいてみましょう。
諸葛草蘆
諸葛草蘆とは、実際に諸葛亮孔明が暮らしていたところです。
諸葛草蘆は、隆中山の麓にあります。
周りは木々に囲まれていたそうで、孔明は自然の中で自由に生きていたんでしょうね。
1枚目の写真の手前が諸葛亮孔明の弟の諸葛均の寝室と応接室。
奥が諸葛亮孔明の寝室と台所です。
草蘆
実際に孔明が住んでいた家を再現したものです。
孔明はこちらの部屋で友人に会っていたそうです。
また、劉備もこちらに訪れたとか。
諸葛亮寝室
こちらは、孔明と孔明の妻である、黄夫人(こうふじん)が
夜を共にした場所です。
台所もありますね。
弟のこの諸葛草盧には、諸葛亮孔明、黄夫人、諸葛均の3人で住んでいました。
孔明琴堂
諸葛亮孔明は、北伐の際「空城の計」を用いました。
空城の計とは、城門を全開にし、敵を招き入れる状態にすることです。
敵は警戒し、城に近づくことができなくなります。自軍が少数、敵が大軍の時に使用されます。
孔明は、司馬懿相手に空城の計を用い、さらに城壁の上で琴を奏で、敵をさらに警戒させ退却させることに成功した。
という話があります。10代のころから琴をこの堂で練習していたのでしょうね。
孔明が実際に耕していた畑
こちらが、孔明が隆中に滞在している際、耕していた畑だそうです。
もちろん一人で耕していたわけではありませんが、思っていたより広くて驚きました。
僕はここへ9月に行ったのですがお米を作っていました。
おまけ写真集
歩道はかなり整備されています。
なにやら煙が・・・
ただの水蒸気でした。
黄夫人。
やはり孔明像はたくさんありますね。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
古隆中は孔明が10年間過ごした場所。三顧の礼、隆中対策が行われた場所。
三国志の歴史がたくさん詰まった場所です。
僕が紹介した場所以外にも周る箇所はたくさんあります。
僕は1日ここにいても飽きないと思います!
PS.後から気づいたのですが、僕は一般の方々が周るのとは逆のルートでいってしまったみたいです。